東洋思想とウェルビーイング
についての論説😊
東洋思想の中でも、仏教思想と『荘子』の思想と幸福について。
ちょっと前のですが、今月は●●学とウェルビーイングを色々紹介しているので、その流れで。
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1.はじめに
2.仏教が見つめる自己と世界
(1)自己の根源的闇
(2)閉じた世界のメカニズムとしての十二支縁起
(3)大乗仏教の縁起観が目指す開かれた世界の認識
(4)無限の縁起的連関世界の把捉へ
3.『荘子』における無限と一との合一
(1)『荘子』の万物斉同の思想
(2)渾沌の寓話が指し示す幸福論
4.おわりに
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東洋思想における幸福観の基底にあるもの
西本照真先生,2018
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sbp/42/0/42_2019_005/_pdf/-char/ja
「文明の構造と人類の幸福」と副題が付されたユヴァル・ハラリ『サピエンス全史』下巻の第 19章は「文明は人類を幸福にしたのか」と題され、人類がそれぞれの時代に作り上げてきた文明は、はたして人類をより幸福にしてきたといえるのだろうか、と問題を提起している。
その上で、幸福が富や健康や社会的な関係などの客観的な条件、主観的な期待や感情や意義などの内的な条件、そして両者の相関関係において決まってくる場合などについて考察を進めている。
客観的な条件に関しては、たとえば富の充足などにおいては一定の水準を超えると幸福感との相関性は薄れてくるといい、また、内的な要件に関しては遺伝的な特性にも左右されうるし、セロトニンやドーパミン、オキシトシンなどの生化学物質のコントロールによっても「幸福」へのアプローチが可能となっているという。さらに、一時の感情ではなく、一定の時間持続しうる幸福には、認知的、倫理的側面、ある行為が人生において有意義で価値あるものと見なすことによって得られるものもあるという。
しかし、その場合においても、「幸福は人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させること」(ユヴァル 2016、234)との解釈も可能ではないかという。総じて、快感であれ、意義であれ、ある種の主観的感情は当てにならないとする。
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その上で、ユヴァルは、「仏教はおそらく、人間の奉じる他のどんな信条と比べても、幸福の問題を重要視している」(ユヴァル 2016、237)と述べ、さらに次のように続ける。
幸福が外部の条件とは無関係であるという点については、ブッダも現代の生物学やニューエイジ運動と意見を同じくしていた。とはいえ、ブッダの洞察のうち、より重要性が高く、はるかに深淵なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。事実、自分の感情に重きを置くほど、私たちはそうした感情をいっそう渇愛するようになり、苦しみも増す。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめることだった。(ユヴァル 2016、239)
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ユヴァルの仏教の幸福観に対する評価は、仏教が幸福の問題に最も関心のある宗教の一つであると同時に、世間一般における幸福の指標としての外的要件の充足はおろか、内的欲求の充足に関してもまったく逆方向に欲求を断ち切っていくことにおいて幸福は実現されるとする。そして、仏教の幸福観の特質を次のように結論づける。
人間は、あれやこれやのはかない感情を経験したときではなく、自分の感情はすべて束の間のものであることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめたときに初めて、苦しみから解放される。(ユヴァル 2016、238)
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つまり、欲求の充足を目指して自己と世界が関わるシステムは、最終的に苦しみをもたらすことにつながる。苦しみを生産しつづける構造そのものを理解し、その構造を断ち切ることによって、苦しみからの解放としての仏教的な真の幸福が実現されるというのである。
では、苦しみからの解放としての仏教的幸福を実現していく方法は何か。ユヴァルは、次のよう
に述べる。
主観的構成を計測する質問表では、私たちの幸福は主観的感情と同一視され、幸せの追求は特定の感情状態の追求とみなされる。対照的に、仏教をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せへのカギは真の自分を知る、すなわち自分が本当は何者なのか、あるいは何であるのかを理解することだとされる。(ユヴァル 2016、239-240)
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幸福の基準を客観的な条件に求めるのでもなく、主観的な感情など求めるのでもなく、真の自己を知ること、自分とは何であるかを理解することに設定するのが仏教であるというのである。
本稿では、幸福論の基底をなすとされる自己と世界の認識に関して、東洋思想の中から、仏教的縁起観と『荘子』の万物斉同思想を取り上げて考察を加える。