63主観的幸福感と公共政策
ウェルビーイングハンドブック_第十章:社会的差異と政策
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■ 主観的幸福感と公共政策(Odermatt & Stutzer, 2018)
「公共政策は人々の幸福のために機能すべき」という点は誰もが同意するところです。しかし、「幸福とは何か」「何が幸福をもたらすのか」については見解が分かれます。この論文では、主観的幸福感(=人々が自分自身の生活の質をどう感じているかという主観的な評価)のデータを公共政策にどう活かせるかを整理しています。
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■ なぜ主観的幸福感を政策に使うのか
従来の経済学では、人々の行動を観察することで「何が人を幸せにするか」を推測してきました。しかしこの方法では、社会的なつながりや自律性、不平等への不満といった非物質的な側面を捉えることができません。
主観的幸福感のデータは、こうした「見えにくい福祉」を直接測定できる点で、GDPなどの従来指標を補完する役割を果たします。
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■ 幸福感に影響を与える政策的要因
▼ 失業とインフレ
・失業は、収入の低下を差し引いても、当人の生活満足度を大きく下げます。特に女性の失業初年度への影響が深刻です(Kassenboehmer & Haisken-DeNew, 2009)。
・失業の悪影響は失業者本人にとどまりません。地域の失業率が上がると、現在働いている人の生活満足度も低下します。ただし公務員(解雇されにくい)はその影響が民間労働者より約3割小さいという結果があります(Luechinger et al., 2010)。これは「いつ自分も失業するかもしれない」という経済的不安が幸福感を損なっていることを示しています。
・インフレ(物価上昇)も幸福感を下げますが、その影響は失業より小さいとされています。ある推計では、失業率1ポイント上昇の悪影響は、インフレ率1ポイント上昇の5倍以上に相当するとされています(Blanchflower et al., 2014)。
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▼ 所得と所得不平等
・人は自分の絶対的な所得だけでなく、他者との比較(相対的な位置)を気にします。周囲の平均収入が高いほど、自分の生活満足度は下がる傾向があります(Luttmer, 2005)。
・所得格差(=社会全体での収入の不平等さ)が拡大すると、あらゆる所得層の人々の生活満足度が下がります。この背景には、不公平感や貧しい人への共感があると考えられます(Schwarze & Härpfer, 2007)。
・アメリカでの37年間のデータでも、所得格差が大きい年ほど平均的な幸福度が低くなっており、その関係は「公平さへの信頼の低下」によって説明されることがわかっています(Oishi et al., 2011)。
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■ 幸福感データによる政策評価
▼ 政策提言の落とし穴
「失業者の幸福感が低いなら給付を増やせばよい」「雇用保護を強化すればよい」という単純な結論は早計です。給付を手厚くしすぎると再就職への意欲が下がる(モラル・ハザード=制度を利用した怠慢)リスクがあり、雇用保護を強化しすぎると企業が新規採用を控えて失業者が増えるという逆効果も起こりえます。
そのため著者らは「何が幸福を最大化するか」という最適化の発想ではなく、「どんな制度・ルールが人々の幸福に資するか」という制度比較の視点を重視しています。
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▼ 労働市場制度の評価
・失業給付が手厚い国ほど、国民全体の生活満足度が高い傾向があります(Di Tella et al., 2003)。
・雇用保護が弱い国では、失業による生活満足度の低下がより大きいという結果もあります(Becchetti et al., 2010)。
・アメリカのデータでは、失業保険の給付水準が高い州では、産業構造の変化(雇用の創出と消滅)による幸福感へのダメージが小さくなることが確認されています(Aghion et al., 2016)。
・ドイツの「ワークフェア(=給付と引き換えに就労を義務付ける制度)」に参加した人は、完全な失業状態よりも生活満足度が高く、感情的な幸福感は就労者と同等かそれ以上でした。これは「働いている」というアイデンティティが幸福感に重要な役割を果たすことを示しています(Knabe et al., 2017)。
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▼ 課税政策
・累進課税(=所得が高いほど税率が高くなる制度)が進んでいる国ほど、国民の主観的幸福感が高い傾向があります。この効果は、教育や公共交通などの公共サービスへの満足度を通じて生じると考えられています(Oishi et al., 2012)。
・一方で「他人より豊かに見せたい」という地位競争(ポジショナル外部性=自分の消費が他者の幸福を下げる効果)を抑えるために、高所得者や贅沢品に重い税をかけるべきという議論もあります。ただし著者らは、この考えに基づいた最適課税の提言はまだ時期尚早であるとしています。
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▼ 公共財の価値評価:生活満足度アプローチ
公共財(公園、クリーンな空気、治安など)は市場で取引されないため、その価値を金額で測ることが困難です。そこで提案されているのが「生活満足度アプローチ(Life Satisfaction Approach)」です。
これは、公共財の量と人々の生活満足度の関係を統計的に分析し、所得の限界効用(=収入が少し増えたときの幸福感の増加)と比較することで、公共財の金銭的価値を間接的に推定する方法です。
この手法は、空港の騒音(van Praag & Baarsma, 2005)、大気汚染(Luechinger, 2009)、犯罪(Manning et al., 2016)、洪水リスク(Luechinger & Raschky, 2009)、テロ(Frey et al., 2009)などの評価に活用されています。
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■ 行動の失敗が起きる領域への政策応用
▼ 限られた意志力という問題
行動経済学(=人間が必ずしも合理的に行動しないことを前提とした経済学の分野)の観点では、人は長期的な自分の利益に反する行動をとることがあります。たとえば、やめたいのにやめられない喫煙がその典型例です。
このような「自己コントロールの失敗」が生じている領域では、行動の観察だけを基準に政策を評価することには限界があります。主観的幸福感のデータは、こうした領域で実際に人々の福祉がどう変化したかを評価するための補完的な手段になります。
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▼ 禁煙政策の事例
著者ら自身の研究(Odermatt & Stutzer, 2015a)では、40か国・地域のデータを使って喫煙禁止令と煙草税が生活満足度に与える影響を分析しています。
・喫煙禁止令は、禁煙に失敗した経験のある喫煙者(=自己コントロールが難しい人)の生活満足度をむしろ高める効果がありました。禁煙できない環境を制度的に作ることで、喫煙への誘惑に抵抗しやすくなるためです。
・一方、煙草税の引き上げは喫煙者の生活満足度を下げる効果が見られ、自己コントロールの補助としての機能は限定的でした。
この結果は、「誘惑そのものを取り除く」という形の政策が、税による価格操作より効果的なケースがあることを示しています。
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■ 幸福感に基づく政策研究の課題
▼ 測定の問題
・主観的幸福感の測り方(評価指標の選び方)によって、異なる政策的結論が導かれる場合があります。
・「以前と同じ状態を以前より低く(または高く)評価するようになる」というスケールの変化が起きると、測定値の変化が真の幸福感の変化を反映しない恐れがあります。
・「社会的に望ましい回答をしてしまう(本当のことを言わない)」バイアスの影響も考慮が必要です。
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▼ 適応と願望水準のトレッドミル
幸福感に影響する出来事(失業、結婚、事故など)の多くは、時間が経つと幸福感への影響が薄れていきます(ヘドニック適応=人が新しい状況に慣れてしまう現象)。
また、収入が増えると「これだけあって当然」という願望水準も上がる傾向があります(願望のトレッドミル=いくら得ても満足できない状態)。
これらは政策評価を複雑にします。たとえば、適応が早い人には補償を低くしてよいのかという問いは、公平性の観点から論争を呼びます。著者らは、こうした問題は個別最適化ではなく、社会的合意のプロセスで扱うべきだとしています。
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▼ 効用の予測ミス
人は将来の出来事(失業、結婚、障害など)が自分をどれだけ幸せ(または不幸)にするかを、系統的に誤って予測することが知られています。特に「その出来事への慣れ(適応)の程度」を過小評価する傾向があります(Odermatt & Stutzer, 2015b)。
この予測ミスは、人が合理的に将来の満足度を最大化しようとするという従来の経済理論(合理的期待仮説)と矛盾します。政策的含意の導出はまだ難しい段階ですが、人々がより良い選択をするための情報として活用できる可能性があります。
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■ まとめ:憲法的視点からの提言
著者らは、幸福感研究を「社会的幸福の最大化」という目標に直結させることには慎重な立場をとっています。その理由は以下の通りです。
・市民は政策の客体ではなく、最終的な意思決定者であるべきです。
・幸福の測定値を操作するインセンティブ(たとえば補償を多く得るために不幸を演じること)が生まれる恐れがあります。
・適応や願望の役割をどう扱うかは、科学的な計算ではなく社会的な合意で決める問題です。
そのうえで著者らが推奨するのは、幸福感研究を民主的な政治過程の補完的な情報として位置づけることです。どんな制度・ルールが人々の幸福を支えるかを比較分析し、その知見を政治的な議論や意思決定に活かしていく——それが、幸福感研究の公共政策への最も健全な貢献のあり方だと結論付けています。
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Subjective Well-Being and Public Policy
By Reto Odermatt and Alois Stutzer, University of Basel
主観的幸福感の測定指標は、個人の福祉を定量的に推定する手段として、経済学において大きな注目を集めている。これにより、研究者は個人レベルおよび社会レベルの両方で、福祉に関連する決定要因を研究することが可能となる。こうした決定要因は、観察可能な行動からは容易に把握できない場合がある。近年の幸福に関する文献を参照し、公共政策にとって重要な幸福の決定要因をいくつか提示するとともに、主観的幸福感の分析が政策評価のための補完的な分析ツールとしてどのように活用されているかを示す。我々は、非最適行動が関与しうる分野において、公共政策を導くためのこれらの指標の活用に焦点を当てる。また、評価指標の選択、評価における志向と適応の役割、および効用の誤予測に関連する、今後の研究における課題についても論じる。
キーワード:主観的ウェルビーイング、福祉の決定要因、政策評価、限定合理性