2025.03.18

「ウェルビーイング」の解剖 : 哲学的考察

とても面白いです😍😍

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「ウェルビーイング」の解剖 : 哲学的考察(1)

一ノ瀬 正樹先生
2025/3/14,武蔵野大学

https://mu.repo.nii.ac.jp/record/2000533/files/humansciences14_03.pdf

1 幸福の概念

2 ウェルビーイングの導入

3 社会のウェルビーイング

4 ウェルビーイングの8つのタイプ

5 客観的なウェルビーイング

6 ウェルビーイングをめぐる論争

7 ウェルビーイングとイルビーイング

8 ディレンマ

9 経験機械

10 人の人生

1 幸福の概念 「自由」が折り紙付きの難問であることは明白である。その根底には、かつてヒューム が指摘したように、そもそも「自由」ということで何を理解しているのかが論者によって 異なっていて、最初からすれ違っているという事態があるのではないかと推定される (See Hume 1999, p.148)。というより、そもそも、「自由」を一切の制限や拘束も ない、というように字義に極端に忠実に素朴に解釈した場合、そもそも「自由」などは ありえない、となることは理の当然ですらある。「自由」が何かの主体に帰せられる 様態である限り、それが何かの主体であるというそのこと自体の制約を論理的に引き 受けなければならず、よって真の「自由」ではありえないからである。 同様なことは「平等」の概念についてもいえる。ただし、「自由と平等」という形 で近代的民主制あるいは近代的人権思想を語る文脈でしばしば対と なって語られる以上、 「自由」について語られることは「平等」についても語られるのほぼ必然であると推定 できる。「平等」をやはり字義に極端に忠実に素朴に解釈するなら、一切の差別なく等し い状態、ということになろうが、そんなことが論理的に不可能なことはもとより明白で ある。「自由」と同様に、「平等」もまた何かの複数の主体に帰属される様態である以上、主 体間に、それが複数の主体である限り、少なくとも位置する時空的な相違や周囲の環境的 な相違があるのはむしろ必然であり、「平等」などはありえない。逆に、例の「ビュリダ ンのロバ」のエピソードが暗示するように、完全なる平等が成り立つとしたら、それぞれ の主体が実はまったく同一になってしまい、それらを「複数の」と形容することさえ奇妙 なことになってしまいかねない。(むろん、「自由」や「平等」は実際には、極端に忠実に 捉えられるのではなく、何らかの制限のもとで理解されているはずだが、その制限がどの ようなものであるかに関して別の問題性が浮き上がる。) 同様なことは「幸福」つまり「しあわせ」に関してても言える。ご く単純に「幸福」を「充 足感のある状態」と大まかに捉えたとしても、それが真に成り立つ場合があるだろ うか と問えば、ただ さん、完璧にそのような状態が現出することは不可能なのではないかと 答えたくなる。生物は、そして人々は、必ずや何ごとかの制約や不足感に、たとえ暗黙的 であるうと縛られているものなのではないだろうか。志望校に合格して満願就職の感慨を 抱き全に舞い上がるような気持ちになったとしても、ちょっと考えると、学生生活がうまく やれるだろうかとか、講義について行けるだろうかとか、そういうことが浮き上がってし まうことはあるのではないか。一人暮らしを始めるときの不安や、経済的な面での漠とし た懸念など、いろいろある。かつて藤原道長が栄華をきわめたときの歌として「この世を ばがが世とそ思ふ望月の欠たることもなしと思ひば」が知られているが、そのときの道 長とて、政治的な脅迫引きのなかでの漠とした不安は根底的に抱いていたのではなかろ か。摂関政治時代の出世争いなど、生き馬の目を抜くような暗闘だったからである。 もちろん、そうはいっても、そのような時勢的な不安をも配性の人が抱くものであるに すぎず、たいていの人は、成功や栄華を勝ち取ったそのときには心の底から歓喜を覚え るのではないか、と言われそうであろう。なるほど、ただかに、欲喜の瞬間というのはある だろう。けれども、時間的要素を加えて、「永続的に充足感のある状態」として「幸 福」を捉えたならばどうだろう。幸福感が永続する、ということは、どう考えても、人間 の事実に反していると言わねばならないのではないか。栄光を勝ち得た人がその後で苦し い人生を送ったり、あるいは少なくともそうした栄光や色あせて単なる過去の話にすぎな くなってしまったり、そうしたことはごく日常的なことである。 しかし、もともと「幸福」の概念には永続性をと合意されていない。あるときに感覚す る充足感や快適さが「幸福」なのであって、時間の経過とともにそうした感覚が薄らいで いたとしても、「幸福」が成立していなかった、ということにはならない。そのように 再び反論されるだろう。なるほど、これもまたもってもな反論をと感じられる。しかし は、「あるときに感覚する充足感や快適さ」ということの「あるとき」とはどのくらいの 時間の長さのことなのだろうか。さきほど「歓喜の瞬間」という言 主観的 個人的 利那的:タイプ1(WB1) 持続的:タイプ2(WB2) 社会的 利那的:タイプ3(WB3) 持続的:タイプ4(WB4) 客観的 個人的 利那的:タイプ5(WB5) 持続的:タイプ6(WB6) 社会的 利那的:タイプ7(WB7) 持続的:タイプ8(WB8) 当座の、暫定的な仮説的提案を最後に述べておこう。「ウェルビーイング」は一般に普通名詞として通用しているが、そうではなくて、動名詞的な表現、もっとダイナミックで変容しつつある様態を示すような概念として捉え直してみたら新しい視野が広がるのではないかと考えている。そもそもウェルビーイングは永続的なものではなく、時間の経過とともにゆれ動き、変化し、場合によっては、あるいは視点によっては、ウェルビーイングだった状態がイルビーイングへと変成することさえあるかもしれないからである。いわば、黒い紙片も一部含だ、点滅を繰り返しながら回旋する万華鏡の映像のようなものである。きらきら綺麗な模様を示すときもあれば、そうした中に黒い部分が混入して現れることもあるし、そしてときには全部が真っ暗になる。そういう意味で、「ウェルビーイング」を、たとえば"well-being-going"、つまり「良好に進んでいること」と解釈し直してみたらどうだろうか、というのが私の提案である。"well-being-going"はいつでもそのときのそのときの場の様態であって、次の瞬間にどうなるかは分からない。同じ風景が連続するかもしれないし、違う風景になるかもしれないし、一部暗くなりイルビーイングが混ざるかもしれないし、真っ暗になって全体がほぼイルビーイングになるかもしれない。こうした動態としての"well-being-going"、それを考察対象にしてみるということ、それが私のさしあたっての仮説的提案である。これ以上の展開は次のミッションに期することにしよう。今回はここで論を閉じたい。
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本研究のウェルビーイング小話はこちら😊
はぴテク相談室:「ウェルビーイング」の解剖 : 哲学的考察
https://wellbeing-archive.pages.dev/posts/2025-03-18-1742338546/

論文紹介 主観的幸福・幸福測定意味・目的・スピリチュアリティ

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